今日は最悪だ──
俺を柱と勘違いした海兵が、足元に吐瀉物をぶちまけたからだ。
厄日というやつか。
朝から、足の小指をドアの角に当て、お気に入りのカップを割る。急な戦闘で飯が食えずパンしかない。風呂が壊れる。
鬱積をぶつける都合の良い相手が出来た。
殺気を向けると共に能力を展開すると、すぐさま長剣を鞘から抜き海兵を真っ二つに斬った。
だが、そいつは素早い動きでバク転を繰り返し、能力の範囲外まで逃れ、切り損ねる。
ハート海賊団を率いる船長トラファルガー・ローは、この海兵は危険だと直感した。
「す、すいません!」
腰の角度45度、海兵の象徴である帽子を外し頭を下げ謝罪すると、高く結い上げてあった黒髪が揺れた。
骨格から女だと思ってはいたが、改めて見るとまだ幼さの残る顔立ちで年の頃は十三から十五だろうか。
顔色を更に青白くし頭を抱え狼狽える。そして弁償しようとでも思ったのか、懐から財布を取り出し中身を確認するや天を仰ぎ祈り始めた。
「キャプテン、替えの服持ってくる?」
ベポが小首を傾け尋ねてくると、その女は目を見開き「きぐるみ」「ゆるキャラ」「ジッパー」だの訳の分からない単語を並べる。
二足歩行の喋る白熊が珍しいのだろう。一瞬にしてベポの背後に回り背中を探り、毛並みを確かめうっとりとした表情を浮かべた。
あの距離を一瞬にして縮めた女── 悪魔の実の能力か
部下も俺も、只者ではない動きをした女に驚きを隠せないまま警戒を示す。
「やべぇ何この手触りもふもふやんああん暖かいもふもふやんもふもふ可愛いもふもふっ」
前言撤回。こいつただの馬鹿だ。
「おい、女。」
ベポの触り心地を堪能していた女が呼びかけに応じ、俺の方を向き初めて視線を交わした気がした。
まるく大きなその瞳は、黄金色に輝く満月を連想させる。
その奥の、背負っている業や過去の闇、彼女を支えているモノなど、その時の俺に読み取れる訳がなかった。
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ心を奪われ、しかしそれを認めたくなかった己は女の首に手を伸ばす。
満月に鋭さが加わり、だが捉えた首に力を込めれば顔を歪めた。
「── 名前は」
首を締め上げていれば答えられないが、何故か問いたくなった。
しかし答えは予想外の所から降り注ぎ、見上げることになる。
「お決まりな台詞だけど、名前を問うならまず自分から名乗れ。 ってね」
確かに女の首を掴んだ感触はあったが、手中に握られているのは太い木の枝。
それを身代わりにし、自身は建物の上に跳んだらしい。
「ま、いいや。私は、。よろしく、ハート海賊団船長トラフぁりゅ、…… がー・ロー」
噛みやがったな
格好良くキめたつもりだが途中の噛んだ所為で台無し。
脅威は感じるものの、緊張感に欠ける場にクルーの一人が声を荒げた。
「キャプテン、海兵が!」
指す方向を見遣ると、女と同じ格好の兵士達が銃を片手に向かって来る。
船酔いが演技だったとは思えないし、仲間を呼んだ素振りもなかったのに。
だが、下っ端がどれだけ群がっても、手術台の上に乗せてしまえばただの肉塊、バラすのは容易。
「"ROOM"、"シャンブルズ"」
女が仲間に指示を出しても既に遅し、刀を一閃すれば海兵達の胴体は真っ二つになり次には他人の部位がくっ付きパニックを起こす。
その隙にクルー達を、潜水艦が停泊している港へ急がせる。
「おのれトラファルガー・ロー!!」
片腕をなくした海兵が斬りかかって来たのを避けて蹴り飛ばす。
足に付いていた女の吐瀉物が舞い、忘れかけていた出来事を思い出し盛大に舌打ちした。
海兵が再び立ち上がる。格好とその根性の座り具合から、他の海兵より上の階級らしい髭の男。
その雄姿を目前にして士気を高めた海兵達は、斬られても痛くも痒くもないことから冷静に判断し動ける者は戦闘態勢を整えていた。
予想外に統率力が高いチームだが、その分リーダーを殺れば分散すると見たシャチが、男に一発の銃弾を打ち込む。
男の額目掛けて放たれた弾は寸分の狂いなく額を貫く筈だった。だが、それを庇うように瞬時に現れたあの女の腕に納る。
いくら急所を避けたとしても、自らの身を呈して上司を守るという行為が出来る人間がいるとは驚愕を通り越して呆れてしまった。馬鹿だ。
だが隙が出来た。再び能力を発動し、髭の男の首を切り落とし挿げ替える。
手負いの女もサークルから逃れることが出来ずに足を切断することに成功した。
それに満足した自分は刀を納め、ベポを引き連れその場から離脱する。
逃走中、女の吐瀉物の酷い臭いが鼻について胸糞悪い。
事の発端はあの女だ。青い顔をしてふらふらと覚束無い足取りでぶつかってきたので押し返した。
文句を言おうと開けた口を手で覆ったかと思うと、俺を支えに足元で吐きやがった。
怒りがフツフツと沸き上がりながらも港に到着すると、我が潜水艦から先に乗り込んでいたペンギンが顔を出す。
「すぐに出港で、」
だが、その顔色が見る見るうちに青くなり語尾が途切れた。
まさかと振り向く前に背中に重い物が圧し掛かり倒れ込み、首だけ巡らし見えたのは黒光りした鋭利な武器と泥がついた手。
見たことのない珍しい形状の武器より、その執念に恐怖を覚えた。
汚れた手は足がなくとも腕の力だけで追ってきた証拠で、片腕からは血が流れ出て地面を徐々に赤く染めている。
己を犠牲にしてまで捕まえたいのか海賊を。海賊である俺を。
だが、女の口からは予想外の言葉が飛び出し間抜けな声を上げてしまう。
「みんなを元に戻してから逃げてよ」
「…… はぁ?」
この女は海軍であったはず。だが「逃げろ」とはどういうことか。罠か作戦か。
急に背中の重みがなくなり立ち上がると、女はベポに首根っこを掴まれ、まるで親猫に連行される子猫のように大人しく俺の次の言葉を待っている様子に拍子抜けした。
「どういうつもりだ」
「どうもこうも、皆を元に戻せって言ってんの」
「その後の台詞だ」
俺の言っている意味が分からないのか、首を傾けながら回想し思い出して、ああ。と呟く。
「言葉のあやというか…… 逃走するなら元に戻してからってことで」
「元に戻せば見逃す。ってことか」
「そんなこと一言も言ってませんが、耳聞こえてる?」
「…… ベポ、そいつを海に放れ」
最後の余計な一言で、女は海に落ちることとなったが、溺れてないところを見ると能力者ではないらしい。
騒いでいる女に、元の体に張り付ければ戻ると言い放つと、驚いた表情のまま固まり静かになった。
「案外、いい奴なんだな」
その呟きは、潜水艦に乗り込んだ俺の耳に届かなかった。
20150924 ローさん視点の、すっごい久し振りの更新